ワールド松涛舘 World Shotokan
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武道の本質

的
弓道に「矢勢(やいき)」という言葉があります。飛んでいく矢の姿をいう言葉だそうです。
的(まと)の中心に命中した矢でも、その形の善し悪しがあると言います。
中心に命中したのだから、その形などはどうでもいいではないかというのは素人で、そんなのは屁理屈だろうと一般の人は考えます。
ところが屁理屈ではなく、実際に鎧や板を貫くときに矢勢の悪い矢では貫けないといいます。
この話は、空手道の技にも共通します。一流の空手家の技は、近くで見るとぞっとするほど、スピード、パワーに迫力があり、
コントロールは正確です、未熟な選手の技は、スピードはあっても何かが欠けています。
それは、試合でのポイントは取れるかもしれないが、基本技を徹底的に修練せずに組手を行い、試合でのポイントを取る練習しかしていないために迫力に欠けるのではないでしょうか。つまり、的に当たっても矢勢が悪いと貫けないのと同じ事で、武道としての本質的なものが欠けているからです。
確かにスポーツとして考えれば、点が入ったからそれで良いではないかと考える方も居り、じっさい空手の試合などでもとにかく勝てば良いといったアドバイスを選手に与える指導者もいるように聞きますが、空手道は、試合においては、確かにスポーツとしての一面がありますが、その根底にある考え方はあくまで武道です。
ただ単に勝てば良いのではなく、勝ち方やその試合に臨むまでの過程が重要だからです。
この過程で修行者は多くのことを学びます。技術は勿論の事ながら、それ以上に大事な心理面での充実をはからなければなりません。
近年、オリンピック競技などでたびたび報道されるドーピング問題、審判員を巻き込んだ不正行為等は、まさに勝利至上主義の歪んだ一面だと思います。
精神
次に、精神面の話を進めます。
矢勢の善し悪しを決めるのは、矢を手から放つときに、心に迷いがあると矢勢が悪くなる、つまり人間の心が矢の飛ぶ姿にすぐにあらわれるそうです。空手に、試し割りというのがあります。板や、石を素手で割るのですが、やはり同様のことが言えます、割る前に、割れるだろうかとか、割れないかもしれないなどと思うと実際に割れません。割ろうとする心にブレーキがかかってしまうからです。
組手(くみて)においても形(かた)においても同様で、心の中の迷いや、わだかまりが、技の勢いを変えてしまうからです。
私も現役選手の頃は、絶えず心の悩みとの戦いでした。勝ちたい勝ちたいという気持ちが、次第に身体を縛って本来の力が発揮することが出来ず多くの苦杯をなめました。また試合に勝ったときでも自分が考えていた勝ち方が出来ませんでした。
40歳まで、現役選手を続けたのですが、心の悩みから解放されたのは、33歳の時でした。世界大会の決勝戦の前、いろいろ作戦を練っていたのですが、突然、これだけ練習をやったのだから(実際、試合前の2ヶ月間は8時間から10時間の練習)後は天命に任せようという気になったとたん気持ちが楽になり(しかしながら若い頃から多くの先生方がこのようなアドバイスを送ってくれたのですが、ただ頭のみで判っていただけでした)、試合でも、無欲で無意識に身体が動き若い頃から理想としていた心技体が一体となった勝ち方が出来ました。その後40歳まで現役選手を続けたのも、この理想を追い求めてきたからでした。
勝ち負けよりもいかに理想の形で戦えたかが主な目的でした。
形
空手には、形(かた)があります。多くの形は、中国で出来、沖縄にわたり日本本土に伝わりました。古来、日本の武道では、形を中心とした稽古により技を錬磨して来ました。空手の形は、完成度の高いものとなり、空手の技術は形の稽古により習得することが出来ます。近年、試合全盛の時代になり、組手の練習のみで形を練習しない選手が多く見られますが、形こそ空手だと思います。 形を練習するには、きちんとした基本技を習得しなければなりません、その点組手は、闘争本能と運動神経のみで出来ます。
若いときから組手のみ練習してきた空手家は、40才過ぎたら出来なくなるでしょう。
理想的なバランス、スピード、緩急、呼吸法を形により習得できます。今日試合全盛の時代であるが故に、形を美しく見せようとするばかりで、本来の力のある突き、蹴りが形の中に見られないのは残念です。しかしその反面、むやみに力一杯やればよいというのではありません。
松濤舘の形は、組手で使うスピード、パワーの有る技を形の中で表現しなければならないといわれてきました、しかし力とスピードのみでは味が無い、このような形は美しくありません。
私の形を練習する目的は、技術的なことより精神的な面に重点を置いております。
形に入る前から心を静め(前心)形を演じている時は、力まず、気をゆるめず、技が静の時でも心は静止せず、激しく動いている時でも心は平静を保ち気迫のある形を演ずる(通心)気持ちを充実させ、少しの雑念も残さず終了する(残心)と言う極めて難しいものです。
私は、試合において、二度この経験をしました。このときは、観客はおろか、目の前にいる審判員も目に入らず、全力で演じたにもかかわらず、呼吸は全く乱れて居らず、全く無我の境地で実に気持ちの良いものでした。
40年以上空手を修行してきた中で、ほんの数度の経験ですが、毎日、毎回このような素晴らしい境地にたどり着きたいと思い形の稽古をしているわけです。
形で、自分の心をコントロールする事は、組手で相手をコントロールするより遙かに難しいというのが私の実感です。
技術面のみならず、精神面での修練を積まれるように望みます。
結局「身体を動かすのは心だということ事です」。
礼
最後に「礼」についてお話ししたいと思います。
武道においては、礼が非常に大切とされております。礼というのは、相手を敬い、敬意を表すことです。
子供達が、空手を習うことの意義はここにあると思います。勿論空手は、体育的にも両手両足を均等に使い、青少年のバランスの良い身体的発育に適した理想的な運動といえますが、青少年にとって最も重要なことは、きちんとした礼儀が身に付くと同時に技術が身に付くことにより自信が出来るという教育的な効果が有ることだと思います。
謙虚
もう一つ大事な点は謙虚であるということです。私たち日本人にとってこの謙虚であるということは、大変重要なことです。
この点は、文化の違いで外国の方々にはわかりにくいことだと思いますが、武道を修行する上で最も重要なことと言えます。
自分に自信が有りすぎると、本当に大切なことを見失うことがあります、自分はまだまだ力が足りないと思えば他人から教えを請うことが出来ます。空手家が、道場に入るときに礼をするのはこのためです。つまり、いっさいのプライドや、自分の経歴を道場の外においてくるということです、そうすれば、何事も謙虚に習うことが出来ますが、チャンピオンなどというプライドや、先生などという肩書きがあると逆に新しいことや、小さいが重要な点をついつい見過ごしてしまうのです。
日本では、自分の能力をひけらかすのは教養のある人間ではないとされます、逆に欧米では、自分の能力を何とかして相手に伝えようとしますが、これは文化の違いですからどちらがよいかは判りません。
美
最後に、格闘技の神髄とは、相手と向かい合ったときに、人間として畏敬の念を込め、きちんとした礼を行い、始めの声と同時に、野獣のごとき闘争本能をむき出しにし、全知全能をかけて戦い、止めの合図とともに再び人間に返り、勝っても、負けても相手に対し、謙虚さと敬意のこもった礼を行う。
この行為が、「格闘技の美」であると思います。

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